せいぜいたのしくやろうぜ

書いてる人:二木

30代からはじめる映画鑑賞。感想記事は基本的にネタバレしているのでご了承ください。

『チョコレートドーナツ』(2014/アメリカ/トラヴィス・ファイン)

 差別心の一番恐ろしいところは、悪意に自覚がない事だとつくづく思う。

 ウィルソン検察官は信頼する部下であるポールがゲイだと判明したとき、おそらく勝手に「裏切られた」という被害者意識すら感じたのではないだろうか。一緒にバスケの1on1に汗を流し、重要な案件を任せる程に評価していた部下がゲイだという事実を突き止め、クビにし、それどころかポールが恋人のルディと共に精一杯の愛情を注いでいるダウン症の少年・マルコを二人から引き離すため、彼らが不利になるようにわざわざ行動を起こした。

 ウィルソン検察官は、自分が正しいことをしていると疑いもしなかった。彼の価値観では、ゲイが子供を育てるなんて決して許される筈がない。そもそもゲイであることを黙ったままポールが自分と働いていたこと自体が、許容できるものではなかった。法廷で勝利したウィルソン検察官は、「ざまあみろ、裏切り者」とでも言いたげな顔でポールを振り返る。その結果、一人の子供が犠牲になった。

 自分の力でマルコと引き離した「ふたりのパパ」から後に送られてきた手紙には、怒りや糾弾ではなく、パパたちがどれだけマルコを愛していたかが綴られていた。親から子へ注がれる愛情にセクシャリティなど関係ないことに、気がついたときには手遅れだったのだ。

 我々は自分が常識的で上品で知性のある人間だと思いこんでいるくせに、正義でくるんだ無自覚な悪意で他者を追い詰めている。他者をズタズタに傷つけなければ、自分がいかにものを知らぬ人間で、偏見に満ちた社会常識の中だけで、いかにもわかったような顔をして、厚顔無恥に人生を歩んでいたのかに気付けない。しかしそれに気付いたときには、取り返しのつかないものを失っている―――。

 この話の舞台が2015年の現在であれば結果は変わったのだろうかと考え込んでしまった。ラストシーンは悲しいけれど、私たちのかわいいマルコと彼が歩く街が酷く美しく撮影されていたことが救いだった。

 

2015/12/26 Huluにて